今回はアドラー心理学の入門書「嫌われる勇気」より「普通であることの受容」という記事を書いてみたいと思います。
前回の記事はこちら
前回は他者貢献についてお伝えしました。
幸福感を感じるためには、共同体の中で居場所を感じること。
他者に貢献し、「自分はこの共同体にとって役に立つ存在なんだ」と思えるようになることで自身の価値を感じることができ、そしてそれが共同体の中で他者と関わっていく上での必要な勇気に繋がってきます。
自分の価値を感じる=他者と関わっていく時に必要な勇気になる!
ではその「自分は役に立っている」という事実をどうやって測ることができるのでしょうか?
答えは、自分では測ることはできない
ということです。
自分がしたことが必ずしも相手にとって有益かどうかなんて自分が決めることではありません。それは受け取った他人が決めることです。
間違っても相手に恩を売るような気持ちでやってはいけません。それは承認欲求にも繋がってきます。
そして、だからこそ私たちは「役に立っている」という言葉を自分なりに考えていいわけです。
役に立ったかどうかは主観で判断していいのです。
もしもあなたが今お金を稼ぐことができていなかったり体調が優れなくて何もできなかったとしても、そんなあなたのことを大事に思っている存在が必ずいるはず。
その「存在そのもので貢献している」という事実もあるんですよ^^
「今のままでいいんだ」「存在していても価値があるんだ」
この言葉で安心する人もいると思います。とは言え
「一度切りの人生、こんなに落ち着いて生きていて良いのか?もっと上を目指して、人とは違うことを成し遂げてもっと役に立つ、価値ある存在になったほうがいいのではないか?」
なんて思いもでてくるかもしれません。
人には劣等感を感じることで「もっと頑張りたい!もっと成長したい!」という向上心とも言える「優越性の追求」があるので、このような気持ちを持つことは当たり前のことです。
ただ現実的な話として特別な人たちは少ないからこそ「特別」なわけですよね。
自分がそこに並ぶことができればいいのかもしれませんが、大半の人はその他大勢になると思います。誰も彼もが時代に名を残せるような人になるのは難しい。
本書ではこの優越性の追求について子供を例にしているのですが、「特別な自分であろう」と初めは正当な努力をする。スポーツや勉強を頑張ってみたり、それぞれの分野で一番になりその共同体の中で特別であろうとするために力を使うんですね。
それを純粋に努力として良い方向へ向かせることだけに使えればいいのですが、頑張っても頑張っても報われなかった時、今度は真逆のことをして「特別な存在であろう」とするわけです。
授業中に抜け出してみんなからの注目を浴びるような感じですね。
これをアドラー心理学では安直な優越性の追求と言っています。
これはネットの炎上なども同じことが言えます。特別な自分で在りたいことに固執をするからこそ、そのような形で目立ちたいわけです。
だからこそ私たちは「普通であることに勇気を持つ」ことが大切になってきます。
普通であることが嫌なのだとしたら、それはあなたが特別な人に対する劣等感から抜け出せていないのかもしれません。そこには「今は普通だけれど、本当の私はもっとすごいんだ!」という気持ちが隠されています。
ではどうすればいいのかというと「今現在の自分を受け容れる」自己受容が大切です。
特別な人に固執しすぎると、安直な優越性の追求をしかねません。
今のありのままの自分を受け容れることで、必要以上に特別な人に対して劣等感を抱かなくなってきます。
・「人の役に立っている」という基準は主観でいい。
・特別な自分で在りたいと思ったとき、普通である自分を受容できていない。
・特別な自分に固執しすぎると、安直な優越性の追求に走ってしまいがち。今現在のありのままの自分を認める。
・今現在の自分を認めることができるようになると特別な人への劣等感が薄れていく。自己受容は自分だけでできる出発点。
確かに人は「特別であろう」としますよね。
その向上心を自分を高めるためにまっすぐに使えれば良いのですが、頑張っているうちに目的がずれて「賞賛されたい」だったり「注目されたい」だったりに固執し、自分を見失ってしまうこともあると思います。
今、現在地の自分をそのまま認めることはとても大事なことですね^^