今回も前回に引き続き意識の話から「同じであること」と「違いがあること」の話をしてみたいと思います。
私たちがこの人生ゲームに疲れてしまったときに取り入れてみてほしいことをお伝えします^^
前回の記事はこちら↓
前回のおさらい
前回は「私=意識」ということと「元々は感覚的な部分があった」ということをお話ししました。
私たちも元は動物と同じ絶対音感であったけれど、人として生きていくために相対音感になった。
同じ認識を持つためにあえて人は感覚を抑え、そして同じであることを選んだわけです。
これは当時まだ物々交換だった頃に遡って考えられているのですが、まだ貨幣経済ではなかったころ、私たちは物と物を交換していました。その際に「同じくらい」を考えなければ「交換」にはなりませんよね。だから人は「同じ」という概念を作りました。
同じであることの大切さ
私たちは同じであることで様々な混乱から自由になっています。
例えば同じであることを認識しているからこそ安心感を得ることができる。そして同じであるからこそコミュニケーションをスムーズに取ることができる。
動物は感覚所与で生きているため、変化を捉える生き物です。これは物事にいちいち意味をつけない動物たちが生き抜く上で必要な本能とも言えるのかな?と思います。
ですが私たちは感覚所与は違うけれど、意識によって変換して同じものにします。だからこそ、色の違う桃を見ても「総称して桃」と分かるから、混乱せずに理解することができる。
私たち人間は良い意味で「違い」を無視し、情報を統合して同じものと認知できる「意識」があります。
本当は体のどこかが毎日変化しているはずなのに、この働きによって昨日の自分と今日の自分を同じものだと認識でき、混乱することもないわけです。
本来私たちが「同じ」を認識することは生きていく上で欠かせないものだった、ということですね^^
同じに囚われすぎるから辛くなる
同じということはとてもありがたいことなのになぜ辛くなるのか。
それは本来の「同じ」の目的を忘れてしまうからなのだと思います。
「同じ」を認識するのは私たちが混乱しないために必要な機能。良い意味で鈍感になる必要があります。
でも、そこに囚われすぎた途端に苦しくなるのだと思います。
「みんながこうしているから…」
「一般的にこのくらいできないと人として恥ずかしい…」
など、「そこは同じじゃなくてもいいんじゃないの?」というところまで同じにしないといけないと思うから苦しくなるんです。
そもそも私たちは違うことが当たり前です。
だからこそ比べてしまうと違うことだらけだと思います。
バランスよく使えているか
「同じであること」
「違いがあること」
どちらも大事なのだと思います。
「自分らしく生きよう!」という言葉も聞きますが、きっとこれは人との違いを探して「自分らしく」を求めるのではなく、人と同じ自分、違う自分、どちらも総称して「自分」であり「意識としての私」なのですよね。
私は人としての思いやりや配慮を使うとき「同じ」は使えるのではないかと思います。
感覚所与は違うからこそ、そこに「常識」を当て嵌めた方が相手のことを思いやることができるように思います。
本当のところ、自分がされて嬉しいことが相手もされて嬉しいこととは限らない。
でも一般的に考えてされて嬉しいことは嬉しい可能性が高いし、仮に受け取った相手が望んでいなかったとしても「大事にしてもらえたんだな」という風に感じてもらえるかもしれません。
「常識」や「普通」は相手に敬意を示すためにあるといいのではないかな、と思います。
でもこの「常識」に囚われすぎると本来の「感覚的な自分」が抑え込まれます。
人は疲れた時に「癒されたい」と自然を求めることが多いです。それも内側の方の感覚的な自分を無意識に求めているからの行動だとも言われています。
意識に囚われすぎると、物事を「良い・悪い」、「意味がある・ない」で考えがちです。
自分があまりにも効率を考え出したり、物事を遂行するために「意味」や「結果」を求めすぎたときには意識に支配されています。
本来のあなたは感覚的な部分を持ち合わせていて、必要だったから少し鈍感さを身につけたて“同じ”を手に入れた。
生きていくために必要だったから持っているだけで、そこに必要以上に常識を当て嵌めてジャッジする必要はありません。
日々やるべきことに追われていると意識を使うことが多いのだと思います。
だからこそバランスをとってたまには意味もなく過ごしてみてください。
意識に囚われすぎている人ほどゆっくりと意味のないことをできないものです。
動物は感覚所与で生きていて、毎日変化を捉える生き物です。たまには猫のように、思うまま過ごしてみるのも大切ですよ^^